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木村傳先生逝く ありがとうございました。

私は、工務店に生まれ、なんの迷いもなく、建築への進路が決ってしまいました。
しかし本当の意味で、建築設計への道を志すことが出来たのは、22歳の時で、行き先のなかった私を木村先生が拾ってくれたからです。
木村傳先生は、村野藤吾賞 や 日本人初、国際コンペ1等入選を果たした、(ペルージア市 ビジネスセンター国際建築コンペ) 等の、輝かしい経歴の持ち主です。
実は私の息子も今、建築に進んでおり、今、古市徹雄さんに教えてもらっていますが、古市先生も、同じ村野賞をとった言わば同志なのだと自慢しても、なかなか信じてもらえません。しかし、それを証明できる一枚の写真を偶然にも見つけました。古市先生が、村野賞受賞時、村野先生とご一緒した際に撮った写真の左隅に、木村先生も映っておりました。これぞ動かぬ証拠。
木村傳先生逝く ありがとうございました。_d0153211_1448316.jpg

木村先生は、この20年ほど、ずっと闘病生活を強いられ、辛かったに違いありません。さぞやペンを持ち、デザインをしたかったであろうと思います。
2月6日、改めて、大勢の大先輩らと通夜の、二次会で、お酒を酌み交わしながら、当時の先生について語り合うと、自分の知らなかった先生の人間像に触れられる事が出来き、感動すら覚えます。
こんな凄い人に、私は拾ってもらったんだ、と。
こういう先輩らに、恥をかかさぬように、さらに上に向かって頑張らねば!とエネルギーを注入することができました。
きっと、私が元所員の中では、一番出来が悪かったに違いありません。
先生に叱られる時に決まって始まるあの出だしのセリフ「あなたネ~・・・」今でも、その視線の怖さを覚えています。
なにしろ、私が入所してから5年間、年齢的に私より若い人が入って来なかったので、ずっと下端でした。今思えば、もっと気持ちを込めてお茶を入れてあげれば良かった。もっと丁寧に、便座をお掃除してあげれば良かったと・・・。悔やむことばかりです。笑
在籍当時、ちょうど、バブル期になり、マンション設計が多かった。 図面はそのほとんどを内製化していましたし、本当に時間をかけて丁寧に設計・監理していたと思います。 頭で考えても、所詮出来の悪い頭、考えるより、まず行動する。手を動かす、汗をかく。とにかく耐えて続ける。
そういう経験が、転職後のスターツでも評価してもらったのだと思うと、ずっと前から、不思議に見えない糸で、今の自分と繋がっていたかのような錯覚を覚えます。
あれがあったからこそ今がある。  すべてに感謝です。
by sogatoru | 2012-02-10 14:48 | プロフィール
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